歴史の散歩道(史跡スポット)

大野城の百間石垣
大野城の百間石垣

10大野城跡(おおのじょうあと/国指定特別史跡)


大野城の百間石垣
 大野城は白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦いで敗れた日本が、唐(とう)と新羅(しらぎ)の脅威に備えるために、天智4年(665)、現在の四王寺山(しおうじやま)に築かれた防衛施設です。
  四王寺山は、中心部がくぼんでおり、その周囲を取り囲むようにして尾根が走るというすり鉢状の地形をしています。その地形を利用した大野城は、尾根に沿って土塁をめぐらし、谷間を石垣や石塁で塞ぐ構造をしており、このような城を朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)といいます。『日本書紀』にも、億礼福留(おくらいふくる)・四比福夫(しひふくぶ)の名前が記され、築城にあたって百済から亡命した貴族の指導があったことがわかります。
  発掘調査によって、土塁の中から70棟以上の倉庫の跡が確認されています。それらの倉庫は、柱を支えた礎石の配置からほぼ同じ大きさの建物であったことがわかります。またその周辺からは、倉庫に蓄えていたと考えられる米が、炭状になってたくさん見つかっています。これらのことから、大野城が備蓄機能を持った防衛拠点であったことがわかります。幸いにもこの時は唐と新羅は攻めて来ず、実戦で使われることはありませんでした。
  しかし奈良時代末の宝亀5年(774)、軍事的緊張関係にあった新羅に不穏な呪詛の動きがあるとして、山頂部に四天王を祀り、仏の力で新羅の呪詛から国家を護ろうとしました。このころから大野城は、防衛施設から仏の山としての姿をあらわしていき、四天王像を安置した四王寺(四王院)を中心にして栄えたことから、「四王寺山」と呼ばれるようになりました。

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