太宰府と文芸
太宰府には、古くより豊かな文芸の土壌があり、当地で詠まれたか、あるいは当地へ思いを馳せて詠まれた和歌や俳句・詩などの作品が、現在に多く伝わっています。ここでは、市内に点在している、こうした作品を石に刻んだ文学碑についてご紹介します。(今後情報を追加する予定です)
長塚節(ながつかたかし)碑
観世音寺の梵鐘(ぼんしょう)の音は、古来多くの人々を魅了し、明治時代の歌人・小説家の長塚節もまた、その音に魅入られた一人でした。節は、写生を文章にも応用した作風で知られる俳人・歌人である正岡子規(まさおかしき)を訪ねてその門下に入り、子規亡き後は直流をくんだ弟子として、周囲から期待をされた人物です。
しかし明治44年、節33歳の年、喉頭結核(こうとうけっかく)という宣告を受け、翌年には夏目漱石(なつめそうせき)の紹介で、治療のため東京から福岡へやって来ます。その道中や滞在中の福岡で、節は各所へ足を延ばして歌を詠み、観世音寺へも訪れています。とりわけ、観世音寺の梵鐘の音に魅せられ、のちに重ねて訪れることとなる福岡で、その度に観世音寺へ赴いています。
【銘文】
手を当てゝ 鐘はたふとき(とうとき) 冷たさに 爪叩き聴く そのかそけきを
この歌は、節が37歳の若さで亡くなる2ヶ月半前に詠んだ、悲痛さ溢れる絶唱です。歌集『鍼の如く(はりのごとく)』では、この歌の前に「彼の蒼然(そうぜん)たる古鐘をあふぐ、ことしはまだはじめてなり」と書かれており、節が梵鐘との再会を心待ちにしていた様子が見受けられます。病身の節と、静かな威厳をたたえた梵鐘の対面、そして両者の間で響くかすかな音色を思い描くとき、胸を打つものがあります。
しかし明治44年、節33歳の年、喉頭結核(こうとうけっかく)という宣告を受け、翌年には夏目漱石(なつめそうせき)の紹介で、治療のため東京から福岡へやって来ます。その道中や滞在中の福岡で、節は各所へ足を延ばして歌を詠み、観世音寺へも訪れています。とりわけ、観世音寺の梵鐘の音に魅せられ、のちに重ねて訪れることとなる福岡で、その度に観世音寺へ赴いています。
【銘文】
手を当てゝ 鐘はたふとき(とうとき) 冷たさに 爪叩き聴く そのかそけきを
この歌は、節が37歳の若さで亡くなる2ヶ月半前に詠んだ、悲痛さ溢れる絶唱です。歌集『鍼の如く(はりのごとく)』では、この歌の前に「彼の蒼然(そうぜん)たる古鐘をあふぐ、ことしはまだはじめてなり」と書かれており、節が梵鐘との再会を心待ちにしていた様子が見受けられます。病身の節と、静かな威厳をたたえた梵鐘の対面、そして両者の間で響くかすかな音色を思い描くとき、胸を打つものがあります。