江戸のおわりから近代にかけて、太宰府には各地から多くの文人墨客が訪れました。その交わりの中で多彩な文化が芽吹き、書画の分野でもすぐれた作品が生まれています。
京都に生まれ秋月藩御用絵師を経て太宰府にやって来た齋藤秋圃(さいとうしゅうほ)は、自由な筆をふるい、晩年まで人々の求めに応じて、卓越した技法を駆使しながら親しみのある絵を描きました。この地で秋圃に師事したのが、吉嗣梅仙(よしつぐばいせん)と萱島鶴栖(かやしまかくせい)です。吉嗣家と萱島家は、以後数代にわたって画人を輩出し、地域の人々や太宰府を訪れる名士とかかわりながら制作を続けてきました。
本展覧会では、『太宰府市史 建築・美術工芸資料編』の発刊を記念し、今も周辺の寺社や個人の手に伝わる作品を、ゆかりの品々と共に紹介します。
齋藤秋圃(1768~1859)
京都樋の口伊佐町に生まれ、丸山派の流れをくむ齋藤秋圃は、大阪新町遊郭の風俗を『葵氏艶譜(きしえんぷ)』に活写し、後に秋月藩に御用絵師として招かれた。隠居後、太宰府錦之町溝尻に移り住み、花鳥・人物・武者などを題材に多くの作品を手がけた。
「博多・太宰府図屏風」は秋圃73歳頃の作で、当時の風俗や太宰府の町並などが描かれており、近世の太宰府の様子を知る上でも貴重な資料である。
吉嗣家・萱島家
太宰府天満宮の祠官の家に生まれた吉嗣梅仙(1817~1896)、秋月藩士の家に生まれ萱島家を継いだ萱島鶴栖(1827~1878)は、ともにはじめ秋圃に師事し、独自の画法を求めていく。幕末期にあって、太宰府に下向していた五卿(ごきょう)らとも昵懇に交わったほか、近隣の神社に多くの絵馬を遺している。
子の世代には両家の長子が活躍する。事故で右手を失いながらも詩書画三道に通じた吉嗣拝山(よしつぐはいざん)(1846~1915)は、南画が次第に衰退傾向を示す大勢にあって、その復興に力を注いだ。また漢学・書道・絵画等を修め、南画界で名を馳せた萱島秀山(かやしましゅうざん)(1858~1938)は、その研鑽の中から新たな画風の境地を開いた。
両家の系統は孫の代へと引き継がれる。吉嗣鼓山(よしつぐこざん)(1879~1957)は先代によって築かれた南画の系譜を継承し、その作品は太宰府天満宮等に伝わっている。一方、萱島秀峰(かやしましゅうほう)(1901~1973)は聴覚を失いながらもいかんなくその才を発揮し、花鳥図等に優品を遺した。
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