太宰府ゆかりの人物

いにしえより政治・交通の要衝であった太宰府は、どの時代も中央の歴史と深く関わりながら、多くの人物が来訪する土地でした。西海道の統括をはじめ、外交・防衛を担う役所として「大宰府」が置かれた頃には、役人たちが赴任します。多くの寺社が創建され宗教文化が花開いた中世には僧侶たちが、また戦国時代には名だたる武将が太宰府に来訪し、江戸時代になると学者たちの太宰府研究が盛んになります。幕末には五卿をとりまく人々の交流が起こり、新たな時代へと引き継がれていきます。人と文物が交錯しながら、多様な文化が花開いた太宰府の魅力を、ゆかりの人物でご紹介します。(今後情報を追加する予定です)

武谷水城(たけやみずき)<br />嘉永5年(1852)~昭和14年(1939)
武谷水城(たけやみずき)
嘉永5年(1852)~昭和14年(1939)

武谷水城(たけやみずき)

 福岡藩士・尾石信一(おいししんいち)のもとに生まれた武谷水城は、最初の名を豊といい、藩校・修猷館(しゅうゆうかん)や文武館で学んだ後、 明治5年(1872) に金沢医学校に入学し、医学の基礎を修めました。二年後、福岡藩医であった武谷祐之(たけやひろゆき)の養子となり、三女・仲 と結婚して武谷姓を名乗りますが、明治23年(1890)、出身地にちなんで名を「水城」としました。
   その後、陸軍軍医学校を経て軍医となり各地に赴任しますが、漢詩や和歌を詠み、同じく軍医であった森鷗外(もりおうがい)とは、特に深い親交のあったことが知られています。明治43年(1910) に福岡に戻った後は郷土史研究に力を尽くし、大正2年(1913) には「筑紫史談会」を創設して精力的に会誌を発行したほか、福岡県教育会会長などを務めました。
   武谷水城の名の由来となった国指定特別史跡「水城跡」の東門の近くには、その名を今に伝える「水城大堤之碑」が建っています。この石碑は、大正天皇御大典で全国が祝賀ムードに包まれる大正4年(1915)、水城青年会の若者たちが発起人となり、郷土の誇りである水城の歴史とその大きさを実際に測って後世に伝えようとしたものです。筑紫郡技手・竹森 善太郎(たけもりぜんたろう)が実測を行い、その結果を文にまとめたのが武谷水城でした。

「水城大堤之碑」
「水城大堤之碑」