太宰府と文芸
太宰府には、古くより豊かな文芸の土壌があり、当地で詠まれたか、あるいは当地へ思いを馳せて詠まれた和歌や俳句・詩などの作品が、現在に多く伝わっています。ここでは、市内に点在している、こうした作品を石に刻んだ文学碑についてご紹介します。(今後情報を追加する予定です)
苅萱の関(かるかやのせき)跡碑
かつて、太宰府には「苅萱の関」という関所があり、次のような悲しい物語が歌舞伎や浄瑠璃などの作品となって、広く知られています。
苅萱の関の関守・加藤左衛門尉繁昌(かとうさえもんのじょうしげまさ)は子宝に恵まれず、願かけのため香椎宮(かしいぐう)へ出向きました。満願の日の早朝、夢枕に神のお告げをうけその通り実行すると、ほどなくして妻は身ごもり、繁昌は生まれた男の子を石堂丸(いしどうまる)と名づけました。 石堂丸は、成人して加藤左衛門尉繁氏(しげうじ)と名乗り、父と同じく関守をしていましたが、あるとき世の無常を悟り、身重の妻と娘を残し、出家して高野山へ入ります。 繁氏が出家して十数年経ったある日、父を探して高野山をさまよう一人の男の子に会いました。その子こそ、繁氏の出家後に生まれた、自分の幼名と同じ名前の息子・石堂丸だったのです。のちに、身寄りをなくした石堂丸が繁氏の元へ父と知らぬまま弟子入りし、父子は一生を仏道修行に励んだといいます。
西鉄都府楼前駅近くには「関屋(せきや)」という地名が残っており、関屋の交差点近くの日田街道沿いに「苅萱の関跡」と刻まれた碑が建てられています。
苅萱の関の関守・加藤左衛門尉繁昌(かとうさえもんのじょうしげまさ)は子宝に恵まれず、願かけのため香椎宮(かしいぐう)へ出向きました。満願の日の早朝、夢枕に神のお告げをうけその通り実行すると、ほどなくして妻は身ごもり、繁昌は生まれた男の子を石堂丸(いしどうまる)と名づけました。 石堂丸は、成人して加藤左衛門尉繁氏(しげうじ)と名乗り、父と同じく関守をしていましたが、あるとき世の無常を悟り、身重の妻と娘を残し、出家して高野山へ入ります。 繁氏が出家して十数年経ったある日、父を探して高野山をさまよう一人の男の子に会いました。その子こそ、繁氏の出家後に生まれた、自分の幼名と同じ名前の息子・石堂丸だったのです。のちに、身寄りをなくした石堂丸が繁氏の元へ父と知らぬまま弟子入りし、父子は一生を仏道修行に励んだといいます。
西鉄都府楼前駅近くには「関屋(せきや)」という地名が残っており、関屋の交差点近くの日田街道沿いに「苅萱の関跡」と刻まれた碑が建てられています。