学芸だより
まぼろしの鎮西博物館と江藤正澄
太宰府では、明治6年(1873)から3回にわたり太宰府博覧会が開催され、寺社や個人が所蔵する古器旧物をはじめ、新たな時代の到来を示す工業製品などが多数陳列されました。博覧会の後、歴史豊かな太宰府の地に常設の博物館を造ろうという構想が生まれます。建設運動の中心となったのは、太宰府天満宮の西高辻󠄀信厳(にしたかつじしんげん)宮司、太宰府の絵師・吉嗣拝山(よしつぐはいざん)、秋月出身の国学者・神官で後に考古資料の収集や研究に努めた江藤正澄(えとうまさずみ)でした。
中でも江藤正澄は、明治20年に自身の収集品を保管・展示する「観古室」(かんこのへや)を建て、博多崇福寺で開催された福岡博物展覧会にも収蔵品を出品しました。これらの収集品をもとに鎮西博物館(ちんぜいはくぶつかん)の設置が計画され、建設費などに充てるために広く寄附を募りました。建設の願いは、明治26年10月2日、内務大臣井上馨(いのうえかおる)の名前で許可されました。しかし、日清戦争により計画は頓挫、集められた資料の大部分は伊勢神宮の徴古館(ちょうこかん)に寄贈され、観古室も菅公一千年祭の際、天満宮に移されました。徴古館は昭和20年(1945)の戦火により建物と収蔵品の多くを焼失しますが、その後の改修を経て現在に至っています。
学芸員 井上 理香
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創建時の神宮徴古館の外観(神宮徴古館所蔵) 江藤正澄(九州大学附属図書館所蔵)