学芸だより

戦国の花・高橋紹運を偲んで――岩屋城戦犠牲者425回追悼法要――


   近年、若い女性を中心に戦国武将ブームが沸き起こり、その関心は依然として高いものがあります。太宰府にも、「戦国の花」と讃えられた注目すべき勇猛な武将・高橋紹運(たかはしじょううん)がいます。高橋紹運は大友方の武将で、彼の忠臣ぶりや高潔かつ誠実な人柄を伝える逸話が現在にも伝わっています。紹運を語るうえで欠かせないのは、彼が城督(じょうとく)をつとめた岩屋城において壮絶な死を遂げることとなった「岩屋城の戦い」でしょう。
   天正14(1586)年7月、島津勢は九州制覇のため筑前の三城(宝満・岩屋・立花)へ向かって兵を進めていました。その最初の標的となったのが岩屋城。岩屋城は宝満・立花の前衛として、最前線に位置していたからです。およそ5万の兵を率いた島津勢に対する高橋勢はわずか700余名の小勢。その戦力差は歴然としており、状況は絶望的でした。
   しかし、降伏勧告にやってきた使者に対し、紹運はそれを固辞します。そして、力衰えつつある大友氏になぜ忠義を尽くすのかと聞かれれば「盛んなる時ばかりが、主家にてもなく、衰えたる時に主家の為に一命を捨てゝこそ名字あるものゝ忠義とこそ存じ候(※1)」「武士たるものは仁義の道を守るこそ花にて候(※2)」と返します。
   島津勢と高橋勢との激戦は14日間にわたって繰り広げられ、敵味方ともにおびただしい数の戦死者がでました。周囲は血で濡れ、染川も鮮血で色を変えたといいます。指揮を執り、絶えず味方を励ましていた紹運もついには自ら出陣し、死期をさとるや敵の手にかからぬうちにと切腹して果てます。こうして、落城はしたものの島津勢の攻撃を半月間に渡りしのいだことは、関白・豊臣秀吉の九州平定を支え、秀吉は紹運を「戦国の花」と称えたのでした。
   7月27日、岩屋城落城の日に当たるこの日、紹運をはじめ岩屋城戦死者を弔うために建てられたという縁起をもつ西正寺では、「岩屋城戦犠牲者425回追悼法要」が行われました。開基以来続くこの法要では、岩屋城戦の縁者が数多く参詣します。住職は紹運辞世の句に触れながらご法話されました。この辞世の句と岩屋城戦の情景を描いた詩吟も披露され、まるで合戦の声が聞こえてくるかのような雰囲気を作り出していました。また、紹運の次男・高橋直次(後に立花と改姓)から14代目当主のご挨拶や研究家によるお話し、自作の和歌が詠じられるなど、それぞれに縁の人々の威徳を偲ぶ姿が見られました。

※1、2『わが郷土太宰府―山内興隆遺稿抄―』より引用

参考文献
『高橋紹運記』藤原一蓑
『太宰府戦国史』吉永正春
『福岡県百科事典上巻』西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部編集
『わが郷土太宰府―山内興隆遺稿抄―』




▲当日の本堂の様子