学芸だより

戒壇院の鑑真忌

 5月6日、戒壇院で鑑真忌が行われました。鑑真和上の名は、ご存知の方も多いはず。教科書にも載っており、「唐招提寺」を連想された方もいるかと思います。さて、そんな鑑真和上の法要が、ここ太宰府に位置する戒壇院で行われるのはなぜでしょうか。
 鑑真は中国の揚州(ようしゅう)生まれの唐僧です。奈良時代、日本では税の負担を逃れるためなどの理由から、勝手に僧尼となってしまう私度僧(しどそう)が多く現れました。私度僧が増えると税収が減り、ひいては国家の基盤を揺るがすことになります。この事態を改め、そして仏教を税逃れのためでない本来の姿へと正すために、戒律(=規律)を伝えてほしいと願う日本からの要請に応えて、鑑真は日本に渡る決意を固めます。
 しかし、日本への渡航は決して容易なものではありませんでした。鑑真の身を案じた弟子による妨害をうけたり難破したりと、5度の渡航は失敗に終わります。命がけの渡航のなかで鑑真は失明してしまいますが、当初の志を持ち続け、ついに6度目にして日本への入港を果たしました。
 渡日した鑑真は、奈良の東大寺をはじめ大宰府の観世音寺、下野(栃木)の薬師寺に戒壇を設け、僧尼となるための受戒(=規律を守ると誓う儀式)ができる場所をつくりました。当時、受戒ができたのはこの3ヶ所のみで、のちに「天下の三戒壇」と呼ばれることとなります。また、鑑真は唐の文物や進んだ文化・技術を伝え、様々な分野へ影響を与えました。このような鑑真との密接な係わりから、戒壇院で鑑真忌が行われているのです。
 76歳で亡くなった鑑真和上の命日であるこの日、戒壇院には本堂の参詣者だけでなく、本堂の外からの見学者の姿もあり、人々の関心が高いことがうかがえました。11時より法要が始まり、住職が読経されるなかで本堂に鎮座する鑑真和上坐像(写真①)へ参詣者が一人一人お詣りをします(写真②)。全員のお詣りが終わると、住職は和上が日本へやってくるまでのいきさつや、境内の菩提樹が和上ゆかりのものであることをお話されました(写真③)。手を合わせ、熱心にお詣りする人の姿からは、仏教をあるべき姿へと正してくれた鑑真和上の功績を称える念が感じられるようでした。


参考文献
『日本仏教史辞典』今泉淑夫編集
『福岡県百科事典上巻』西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部編集



▲写真① 鑑真和上坐像


▲写真② 参詣者


▲写真③ お話される住職