学芸だより

ごめんなっせ 「観世音寺にわか」

 頭に「ぼてかつら」をかぶり、顔に「半面」を着けた男たちが、次々に仮設舞台のガラガラ戸をくぐり「ごめんなっせ」と現れます。演ずるのは、一口にわか・段もの・二人羽織など素人芸の数々。半面に顔を隠して、世相に対する諷刺や笑いを語呂合わせに織り交ぜながら、息の合った絶妙な掛け合いで盛り上げます。
  にわかは、江戸時代に上方を中心に流行して全国に広まり、明治のころに全盛期を迎えます。太宰府の各地区でも、盆供養などさまざまな行事の折に上演されました。中でも観世音寺区は芸達者ぞろいで知られ、青年団が主体となって練習に励み、観世音寺の境内をはじめ空き地や田んぼなどに舞台を設けて、人々に娯楽の場を供しました。「観世音寺にわか」が上演される時は、近隣からも大勢の人々が集まり大変なにぎわいとなったようです。昭和のはじめ、大野城市の思水園で開催された福岡日日新聞主催の演芸大会では、優勝してリヤカーに賞品の幕を掲げ、太宰府まで皆でパレードして帰ったとか。また戦時中には、筑豊地方の炭坑へ請われて慰問に出かけるほどの腕前でした。
  見る方も演じる方も熱中するにわか。その軽妙な音頭をとった平太鼓と締太鼓が、現在も観世音寺公民館に残っています。平太鼓の胴内の墨書から、明治29年に筑紫郡石堂橋通(現在の博多区中呉服町付近)の豊富太鼓屋で作られたものであることがわかります。 



観世音寺区のみなさん。
手前が平太鼓、奥が締太鼓。
太鼓が実際に使われていたころ。「観世青年二〇加連中」により、初盆を迎えた家の追善供養のために行われたにわか。かつらも小道具も手作り。