学芸だより

古い写真に写った太宰府碑

 ここに2葉の古い写真があります。両方とも、大宰府政庁正殿跡のようすを、ほぼ同じ角度から写したものです。このうちの一葉には、石碑が手前の二基しか写っていません。これらの写真はいつ頃撮影されたものなのでしょう。
 現在、正殿跡には三基の石碑が建っています。このうち最初に造立されたのは中央の「都督府趾碑」で、御笠郡各村で大庄屋などを歴任した乙金出身(現大野城市乙金)の高原善七郎美徳が、都府楼跡の荒廃を嘆いて、明治4(1871)年に建てたものです。
 次に建てられたのは、手前に見える明治13(1880)年造立の「太宰府址碑」で、明治維新政府の立役者の名前が並びます。額題の染筆は有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王、碑文の撰は大村藩出身の福岡県令・渡辺清、またその文を書に表したのが彦根藩出身の書家・日下部鳴鶴(くさかべめいかく)です。
 さらに奥側に「太宰府碑」が建てられるのは、34年後の大正3(1914)年を待たねばなりません。しかし、この碑が企画されたのは寛政元(1789)年のことで、フランス革命勃発の年にまでさかのぼります。碑の撰文は、福岡藩の儒医であった亀井南冥(かめいなんめい)が藩命により行いました。しかし藩内の学閥争いが激化し、碑文の内容が体制批判であると見なされて、建碑は中止に追い込まれてしまいます。さらに江戸幕府が朱子学以外の学問を禁ずるようになると、異なる学派に連なる南冥は失脚してしまうのです。
 現在の「太宰府碑」は、南冥の才を惜しんだ弟子たちの手により、125年の歳月を経て建てられたものです。最初に見た写真のうち、この「太宰府碑」が写っていない方は、大正3年以前に撮影されたものとわかるのです。