学芸だより
高橋鑑種(たかはしあきたね)について
天正(てんしょう)10年(1582)本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれましたが、この時代、家臣が主君を裏切ることは珍しくなく、大宰府でも高橋鑑種が主家の大友氏に反旗を翻しています。
高橋鑑種は、豊後(ぶんご)(大分県)の大友(おおとも)氏の庶流である一萬田(いちまだ)氏の生まれでしたが、筑後(ちくご)(福岡県)の高橋家の名跡を継ぎ、弘治(こうじ)3年(1557)頃、筑前(ちくぜん)(福岡県)の岩屋・宝満城督に任命され、大友氏の領地支配に務めました。しかし、永禄(えいろく)5年(1562)頃、鑑種は、大友氏と敵対する安芸(あき)(広島県)の毛利氏に内通し、毛利氏の筑前進出に尽力しました。大友氏も討伐軍を派遣し、北部九州は大友勢と毛利勢との戦いが激化します。そののち、永禄12年(1569)頃、後ろ盾であった毛利氏が九州から撤退し、鑑種を含む反大友勢力も降伏しました。降伏後、鑑種は豊前(ぶぜん)(福岡県・大分県)の小倉城へ追放となり、岩屋・宝満城には新たに、高橋家を継いだ吉弘鎮理(よしひろしげまさ・後の高橋紹運(たかはしじょううん))が入城することとなります。
戦乱により支配者が幾度も替わった中世の大宰府では、主家に反旗した鑑種のような武将が数多く活躍していました。興味のある方は、一度この時代の歴史を紐解いてみると面白いかもしれません。
学芸員 松村和