学芸だより

武藤資能(むとうすけよし)について


    武藤資能(むとうすけよし)は、鎌倉時代に太宰府で活躍した武士です。武藤氏は、父資頼(すけより)の代に筑前(ちくぜん、福岡県)、肥前(ひぜん、佐賀県)、豊前(ぶぜん、福岡県・大分県)の3ヶ国の軍事・行政を司る守護として、武蔵国(むさしのくに、東京都・埼玉県・神奈川県)から大宰府へ下りました。資頼が武士でありながら朝廷の職である大宰少弐(だざいのしょうに)に任命されると、子孫はこの職を世襲し、姓を少弐と名乗るようになりました。
    文永(ぶんえい)5年(1268)、東アジアで大国を築いていた元(げん)から、日本と親睦を深めるため使節派遣の要請と、応じない場合の武力制圧をほのめかす国書が、大宰府へもたらされました。資能はすぐさまこの国書を幕府へ送り、使者の対応にあたりました。幕府は元が攻めてくる可能性を考え、この国書を含め数回の返答を拒み、戦いに備えて九州の防御を強化しました。そして、文永11年(1274)と弘安(こうあん)4年(1281)の二度にわたる蒙古襲来(もうこしゅうらい)が起こると、資能は高齢でありながら、異国警固の最前線で息子達と共に九州の武士を指揮して戦いました。しかし、壱岐の戦いでの負傷がもとで、84歳で亡くなったと伝えられています。
    現在も、四王寺山の麓(ふもと)、観世音寺子院のひとつといわれる安養寺跡の一角には、父資頼と資能の墓と伝わる供養塔が遺っています。秋の史跡散策の折、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか?

学芸員 松村 和


左:資頼供養塔  右:資能供養塔
左:資頼供養塔  右:資能供養塔