学芸だより
浦ノ城(うらの(ん)じょう)について
太宰府天満宮の西側にある丘の上には、鎌倉時代、武士と朝廷の職を兼任し、大宰府の最高責任者であった少弐氏(しょうにし)の居城と伝わる「浦ノ城」が築かれていました。
文永11年(1274)と弘安4年(1281)の二度にわたる蒙古襲来(もうこしゅうらい)を契機に、幕府が異国警固のため役所を博多に設置したことで、九州の政治の中心は大宰府から博多に移りました。そのため幕府は、大宰府を支配していた少弐経資(しょうにつねすけ)に、権力弱化の埋め合わせと蒙古襲来時の活躍の恩賞として、弘安5年(1282)に浦ノ城を与えたと考えられています。その後、文和元年(正平7年、1352)浦ノ城では、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)の家臣で、九州統治を任された一色道猷(いっしきどうゆう)と、反尊氏派と手を結ぶ少弐頼尚(しょうによりひさ)との間で戦が行われました。
現在、浦ノ城の跡地の大半は宅地化により失われ、一部が公園となっています。太宰府は、中世においても歴史的な出来事の舞台としてたびたび登場し、浦ノ城もその一つでした。
学芸員 松村 和