学芸だより
「引陣地蔵」について
文化ふれあい館から国分の住宅地を北東に進んだところに、四王寺山へと続く林道があります。その林道を歩いていくと、「引陣地蔵」(ひきじじぞう)と呼ばれる地蔵菩薩を祀る小さなお堂が見えてきます。
天正14年(1586)7月、四王寺山の中腹にあった岩屋城では、九州制覇のために北上していた薩摩(鹿児島県)の島津氏の大軍と、この城を守る豊後(大分県)の大友氏家臣高橋紹運の軍勢数百名が戦い、激闘の末、紹運を含めたほとんどの城兵が討たれたとされます。
地蔵菩薩は、この戦いで亡くなった人々を地元の人々が供養した墓といわれ、「引陣」という地名は、島津氏が岩屋城を落城させた後、この場所を通って軍勢を引き上げたことが由来となっています。
太宰府市には「引陣地蔵」だけでなく、島津氏の陣があったことに由来するという地名「陣の尾」や、紹運の辞世の句が記された碑など、岩屋城の戦いに関連する地名や石碑などがいくつもあります。岩屋城跡だけでなく、このような場所も訪れてみてはいかがでしょう。
天正14年(1586)7月、四王寺山の中腹にあった岩屋城では、九州制覇のために北上していた薩摩(鹿児島県)の島津氏の大軍と、この城を守る豊後(大分県)の大友氏家臣高橋紹運の軍勢数百名が戦い、激闘の末、紹運を含めたほとんどの城兵が討たれたとされます。
地蔵菩薩は、この戦いで亡くなった人々を地元の人々が供養した墓といわれ、「引陣」という地名は、島津氏が岩屋城を落城させた後、この場所を通って軍勢を引き上げたことが由来となっています。
太宰府市には「引陣地蔵」だけでなく、島津氏の陣があったことに由来するという地名「陣の尾」や、紹運の辞世の句が記された碑など、岩屋城の戦いに関連する地名や石碑などがいくつもあります。岩屋城跡だけでなく、このような場所も訪れてみてはいかがでしょう。
学芸員 松村和