太宰府ゆかりの人物

いにしえより政治・交通の要衝であった太宰府は、どの時代も中央の歴史と深く関わりながら、多くの人物が来訪する土地でした。西海道の統括をはじめ、外交・防衛を担う役所として「大宰府」が置かれた頃には、役人たちが赴任します。多くの寺社が創建され宗教文化が花開いた中世には僧侶たちが、また戦国時代には名だたる武将が太宰府に来訪し、江戸時代になると学者たちの太宰府研究が盛んになります。幕末には五卿をとりまく人々の交流が起こり、新たな時代へと引き継がれていきます。人と文物が交錯しながら、多様な文化が花開いた太宰府の魅力を、ゆかりの人物でご紹介します。(今後情報を追加する予定です)

竹森善太郎(たけもりぜんたろう)<br />明治4年(1871)~昭和22年(1947)
竹森善太郎(たけもりぜんたろう)
明治4年(1871)~昭和22年(1947)

竹森善太郎(たけもりぜんたろう)

 竹森善太郎は、水城村通古賀(とおのこが)に代々続く大庄屋の家に生まれ、大正12(1923)まで福岡県の吏員(りいん)、今で言う県庁の職員として、農業指導などに当たりました。県を退職した後は、水城村の助役となり、昭和8年(1933)からは4年間にわたって村長を務めました。竹森は、水城村内に多数点在している史跡についても深い関心を寄せ、石碑の建設などの顕彰活動にも熱心でした。その一つが、国指定特別史跡「水城跡」の東門に近い公園の一画に建つ「水城大堤之碑」です。この石碑は、大正天皇御大典で全国が祝賀ムードに包まれる大正4年(1915)、水城青年会の若者たちが発起人となり、郷土の誇りである水城の大きさを実際に測って後世に伝えようとしたものです。当時、県に在職中(技手)であった竹森善太郎が水城の実測を行い、陸軍軍医監で郷土の歴史に明るかった武谷水城が、測量結果と水城の歴史をまとめ、石碑に記しています。

「水城大堤之碑」
「水城大堤之碑」