太宰府ゆかりの人物

いにしえより政治・交通の要衝であった太宰府は、どの時代も中央の歴史と深く関わりながら、多くの人物が来訪する土地でした。西海道の統括をはじめ、外交・防衛を担う役所として「大宰府」が置かれた頃には、役人たちが赴任します。多くの寺社が創建され宗教文化が花開いた中世には僧侶たちが、また戦国時代には名だたる武将が太宰府に来訪し、江戸時代になると学者たちの太宰府研究が盛んになります。幕末には五卿をとりまく人々の交流が起こり、新たな時代へと引き継がれていきます。人と文物が交錯しながら、多様な文化が花開いた太宰府の魅力を、ゆかりの人物でご紹介します。(今後情報を追加する予定です)

日下部鳴鶴<br />天保9年(1838)~大正11年(1922)
日下部鳴鶴
天保9年(1838)~大正11年(1922)

日下部鳴鶴(くさかべめいかく)

  彦根藩士の家に生まれ、幼名を八十八、後に東作と名乗った鳴鶴は、22歳で日下部三郎右衛門(くさかべさぶろうえもん)の養子となり、その娘と結婚して日下部姓を名乗ります。しかし、桜田門外の変で井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺された際、三郎右衛門も落命したため、鳴鶴は幕末の混乱と困窮の中、幼い頃から得意としていた書や詩文の修行を続けます。
   明治元年(1868)に上京した鳴鶴は、時の内務大臣・大久保利通(おおくぼとしみち)の信任を得て太政官大書記官に就任し、明治天皇の御前で書の腕前を披露する機会に恵まれるなど、活躍の場を広げます。しかし、明治11年(1868)、登庁途中の大久保利通が暗殺され、再び後ろ盾(たて)を失った鳴鶴は、世の無常を感じて官を辞し、書の道に生きていく決意をします。鳴鶴42歳の旅立ちでした。
   明治13年(1880)、博学をもって知られた清国公使・楊守敬(ようしゅけい)との出会いを機に、鳴鶴は書の研鑽(けんさん)を重ねて独自の書風を生み出し、近代書道史上に大きな足跡を残します。現在、大宰府政庁正殿跡に立つ「太宰府址碑」の本文は、鳴鶴が書家として歩みはじめて間もない頃の作で、福岡県令・渡辺清(わたなべきよし)の文を書にしたものです。

「太宰府址碑」
「太宰府址碑」