太宰府ゆかりの人物

いにしえより政治・交通の要衝であった太宰府は、どの時代も中央の歴史と深く関わりながら、多くの人物が来訪する土地でした。西海道の統括をはじめ、外交・防衛を担う役所として「大宰府」が置かれた頃には、役人たちが赴任します。多くの寺社が創建され宗教文化が花開いた中世には僧侶たちが、また戦国時代には名だたる武将が太宰府に来訪し、江戸時代になると学者たちの太宰府研究が盛んになります。幕末には五卿をとりまく人々の交流が起こり、新たな時代へと引き継がれていきます。人と文物が交錯しながら、多様な文化が花開いた太宰府の魅力を、ゆかりの人物でご紹介します。(今後情報を追加する予定です)

中島利一郎<br />明治17年(1884)~昭和34年(1959)
中島利一郎
明治17年(1884)~昭和34年(1959)

中島利一郎(なかしまりいちろう)

  水城村国分に生まれた中島利一郎は、水城小学校から修猷館(しゅうゆうかん)中学、早稲田大学へと進み、黒田家記録編纂(へんさん)主任を経て、大正12年(1923)、40歳で宮内省臨時帝室編集局に入ります。ここで利一郎は、明治天皇の60年にわたる公私の動静をまとめた『明治天皇紀』の編集に従事しました。また、帝室博物館の館史編纂なども担当し、この間の学究生活で多くの著述や論文を発表して、武谷水城らが主催する『筑紫史談』などに投稿を重ねました。
   中島の郷里に対する愛惜の情は深く、ペンネームを筑前水城村にちなんで筑水とし、筑前会を結成して福岡から上京する人々の交流の場としました。昭和6年(1931)には世田谷区豪徳寺(ごうとくじ)に新居を構えて「琳琅書屋(りんろうしょおく)」と名付け、修猷館の同窓生・中野正剛(なかのせいごう)や緒方竹虎(おがたたけとら)をはじめ、森鷗外(もりおうがい)・北原白秋(きたはらはくしゅう)・西条八十(さいじょうやそ)・松本清張(まつもとせいちょう)など、各界で活躍する福岡出身者を招いています。
   大正11年(1922)、筑前国分寺跡が初めて国の史跡に指定された時、これを歓迎した国分の人々が、昭和3年に「聖武帝勅建筑前国分寺碑」を建設します。その背面に国分寺創建の由来を記したのが中島利一郎です。なお、碑の正面は、福岡藩最後の藩主・黒田長知(くろだながとも)の長男・黒田長成(ながしげ)の書です。

「聖武帝勅建筑前国分寺碑」
「聖武帝勅建筑前国分寺碑」