太宰府と文芸

和歌・俳句・詩・小説・紀行文など、太宰府を題材として取り扱った作品は数多く存在しています。それらの作品は、古い時代の太宰府の姿を教えてくれる手がかりともなり、作者の描写からは「太宰府」がどのようにイメージされているかを、知ることもできます。ここでは、太宰府ゆかりの文学作品について広く捉え、ご紹介します。(今後情報を追加する予定です)

宗祇( そうぎ)『筑紫道記( つくしみちのき)』

宗祇
宗祇

 一流の連歌師(れんがし)として名を馳せた宗祇は、40 歳を過ぎたころに中年の詩人として世に登場し、連歌界に君臨しました。 連歌とは、和歌から派生し、中世に大流行した文芸で、5・7・5・7・7という歌の形式の、上の句(5・7・5)と下の句 (7・7)とを別人が詠み繋いでいくという、複数人で展開されるものです。宗祇は頻繁に各地を旅していたことで知られており、 ここ太宰府にも宗祇の足跡が残されています。
   文明12 年(1480)、60 歳の宗祇は守護大名・大内政弘(おおうちまさひろ)の招きをうけ、山口へ赴きました。そして、同年 9月より、山口から太宰府天満宮をめざして再び山口に戻るという、36 日間の旅をしています。『筑紫道記』は、その旅の風景 が記録された紀行文で、太宰府天満宮参詣に向かった宗祇が道中で、歌枕のほか名所旧跡を探訪する様子が書かれています。ま た、宗祇の記述からは、太宰府天満宮で連歌を詠む会が催されたこともうかがえます。
   太宰府天満宮にある「心字池(しんじいけ)」の周りに林立している梅の見事で美しいことや、関所「苅萱の関(かるかやのせき)」 に立つ関守が宗祇を見ている様子が恐ろしく感じられたこと、水城跡がまるで横たわる山のようであったことなど、当代一の連 歌の名手によって太宰府各地が生き生きと描写されています。当時の太宰府を知ることのできる貴重な作品です。


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