太宰府と文芸

和歌・俳句・詩・小説・紀行文など、太宰府を題材として取り扱った作品は数多く存在しています。それらの作品は、古い時代の太宰府の姿を教えてくれる手がかりともなり、作者の描写からは「太宰府」がどのようにイメージされているかを、知ることもできます。ここでは、太宰府ゆかりの文学作品について広く捉え、ご紹介します。(今後情報を追加する予定です)

夏目漱石(なつめそうせき)の太宰府俳句



  明治時代の文豪として知られる夏目漱石は、明治29年(1896)9月初旬に夫人と北部九州旅行をしており、太宰府へも足を運んでいます。3ヶ月前に結婚したばかりの夏目夫妻にとって、新婚旅行だったともいえる旅の途中、漱石は視界に捉えた風景を俳句にしています。漱石の目に太宰府の地はどのように映ったでしょうか。当地で作られた俳句をご紹介します。

太宰府天神 
     反橋の 小さく見ゆる 芙蓉(ふよう)哉(かな)

     「太宰府天神」は太宰府天満宮のことを指します。芙蓉は白または桃色の花を咲かせる植物ですが、ここで見たのは心字池にかかる鮮やかな朱色の反橋(太鼓橋)との対比が美しい、白色だったかもしれません。夫人を芙蓉に例えた句という見方もあります。

観世音寺 
     古りけりな 道風(とうふう)の額秋の風

    「道風の額」は、かつて観世音寺の南大門に存在した鳥居に掲げられていた額のことです。平安時代の能書家として有名な小野道風(おののとうふう)筆と伝わる寺号額で、現在実物は観世音寺宝蔵で展示されています。講堂には、江戸時代の儒学者・亀井南冥(かめいなんめい)がこの額を模写したものが掲げられています。

都府楼 
     鴫(しぎ)立つや 礎残る 事五十

     「都府楼」は古代の役所・大宰府政庁跡のことで、創建当時の壮大な規模を感じさせてくれる礎石は、明治23 年(1890)の調査で105 個残っていると数えられています。史跡整備前の物寂しい様子が、実際よりも数を少なく見せたようです。

     漱石は旅路で作った俳句を、友人である俳人・正岡子規(まさおかしき)に送っており、子規は出来の良い句に丸や二重丸を加え、自身が記者でもあった新聞「日本」で取り上げています。反橋の句には二重丸がつき、漱石が滑稽味のある句を好んで作る一方、「雄健なるものは何処迄も雄健に真面目なるものは何処迄も真面目な」句も作る一例として紹介されました。



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