太宰府と文芸

太宰府には、古くより豊かな文芸の土壌があり、当地で詠まれたか、あるいは当地へ思いを馳せて詠まれた和歌や俳句・詩などの作品が、現在に多く伝わっています。ここでは、市内に点在している、こうした作品を石に刻んだ文学碑についてご紹介します。(今後情報を追加する予定です)

大伴旅人(おおとものたびと)・児島(こじま)碑 

大伴旅人・児島碑<br />大伴旅人(天智天皇4年(665)~天平3年(731)) 、児島(生没年不詳)<br />石碑所在地:水城東門跡付近
大伴旅人・児島碑
大伴旅人(天智天皇4年(665)~天平3年(731)) 、児島(生没年不詳)
石碑所在地:水城東門跡付近

 大宰帥(だざいのそち)・大伴旅人が、大納言に任じられて帰京する際、遊行女婦(うかれめ)・児島と詠み交わした歌です。遊行女婦とは、酒宴の席で歌や舞を披露して接待する女性を指します。都から大宰府へ赴任してきた旅人は、滞在中に愛妻を亡くし、悲しみにくれます。望郷の念や、亡くした妻への思慕を多く詠み残した旅人にとって、児島の存在はどれほどの支えであったでしょうか。

【銘文】
凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振りいたき袖を 忍びてあるかも    娘子児島
(普通の身分の方であったなら袖を振ってお別れするものを、恐れ多いので、振りたい袖を我慢しています。)

ますらをと 思へるわれや水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ    大納言大伴卿
(涙など流さないと思っていた私が、水城のほとりで涙を拭うことになるのだろうか。)

   二人の別れの場面で詠まれたこの歌は、旅人の出立が公的なものであり、周囲に官人がいるなかで、旅人と児島の間にある身分の隔たりが浮き彫りとなっている様子をうかがわせます。再びは逢えないかもしれないという、両者の悲しみが色濃く感じられるこの歌は『万葉集』巻6に収められています。


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