太宰府の歴史

先史時代の太宰府の遺跡をはじめ、繁栄した古代太宰府、支配者がつぎつぎに代わる中世の太宰府とそこに花開いた文化、幕末の五卿の滞在と勤皇の志士や地元文化人との交わりなど、歴史の流れを紹介するとともに、太宰府の歴史を顕彰・再発見し失われつつある記憶をつなぎとめる取り組みが、江戸時代から行われていたことや、歴史文化を活かした事業をとおして、本市の地域性・風土が形成されてきたことを紹介します。

中世都市の風景 


出土したかわらけ

 鎌倉時代の太宰府は、大宰府機構(朝廷側)にくわえ宰府守護所(幕府側)もおかれ、政治都市としての性格を保っていました。南北朝の動乱の時代も、各勢力が太宰府入りし、その政治的重要性はつづきます。
   廃される古代寺院がある一方、安楽寺(あんらくじ・現在の太宰府天満宮)や観世音寺(かんぜおんじ)などは、多くの子院(しいん)や荘園をかかえる中世寺院へと変化しました。さらに禅宗・律宗・時宗など多様な宗派も流入し、まさに太宰府は宗教都市というべき姿をみせるようになります。連歌師(れんがし)による安楽寺参詣(さんけい)など、人々の往来もさかんでした。
   こうした都市のあり方は、商人や職人の必要性を生みました。戦国時代には市が立ち、五条(ごじょう)地区では、「六座(ろくざ)」と呼ばれる商人の座が知られています。これも都市としての太宰府の姿をあらわしています。
※本文は『太宰府市市制施行30周年記念 まるごと太宰府歴史展図録』(平成24年発行)より転載

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