太宰府の歴史

先史時代の太宰府の遺跡をはじめ、繁栄した古代太宰府、支配者がつぎつぎに代わる中世の太宰府とそこに花開いた文化、幕末の五卿の滞在と勤皇の志士や地元文化人との交わりなど、歴史の流れを紹介するとともに、太宰府の歴史を顕彰・再発見し失われつつある記憶をつなぎとめる取り組みが、江戸時代から行われていたことや、歴史文化を活かした事業をとおして、本市の地域性・風土が形成されてきたことを紹介します。

文化のまちへの胎動


博多太宰府図屏風 天保11年(1840)(齋藤秋圃筆、個人蔵、九州歴史資料館写真提供)

 長い戦乱がおわり、太宰府は中世的な宗教都市から、文芸・絵画・学問などを通じてさまざまな人々を惹(ひ)きつけるまちへと変わりました。まちの中心は太宰府天満宮とその門前町へと移り、全国からの参詣者を迎える都市的な空間が形づくられます。人々の往来のなかで、地域の歴史と文化が新たに展開し始めます。
   文芸では、中世以来の連歌(れんが)の伝統が祈祷連歌や俳諧(はいかい)のなかに受けつがれ、絵画では、筑前を代表する絵師の齋藤秋圃(さいとうしゅうほ)が登場し、のちの太宰府画壇(がだん)の基礎をきずきます。古代以来の太宰府の歴史も福岡藩の儒者(じゅしゃ)や国学者によって掘りおこされました。
   人々が太宰府の史跡や景観に長い歴史とのつながりを見出すようになるのも、この時代のことです。
※本文は『太宰府市市制施行30周年記念 まるごと太宰府歴史展図録』(平成24年発行)より転載

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