太宰府の歴史

先史時代の太宰府の遺跡をはじめ、繁栄した古代太宰府、支配者がつぎつぎに代わる中世の太宰府とそこに花開いた文化、幕末の五卿の滞在と勤皇の志士や地元文化人との交わりなど、歴史の流れを紹介するとともに、太宰府の歴史を顕彰・再発見し失われつつある記憶をつなぎとめる取り組みが、江戸時代から行われていたことや、歴史文化を活かした事業をとおして、本市の地域性・風土が形成されてきたことを紹介します。

戦国の動乱と復興 


高橋紹運肖像(大牟田市立三池カルタ・歴史資料館蔵)

   室町時代、少弐氏(しょうにし)にかわって筑前(福岡北部)を支配したのは、周防(すおう)・長門(山口)を本拠とする大内氏(おおうちし)でした。応仁(おうにん)の乱の頃には少弐氏により一時的に筑前をうばわれますが、乱の終結で大内政弘(おおうちまさひろ)が京から帰国すると、すぐに筑前を取りもどします。
   その後、大内氏の滅亡によって、筑前の支配者は豊後(大分南部)を本拠とする大友氏(おおともし)へと移りますが、日向(宮崎南部)耳川(みみがわ)の合戦で大友氏が島津氏(しまづし)に大敗し、九州内は激しい戦乱状態におちいります。
   四王寺山(しおうじやま)に岩屋城(いわやじょう)、宝満山(ほうまんざん)に宝満城が置かれ、郡代(ぐんだい)・城督(じょうとく)が配備されたことで、太宰府はしばしば戦闘の舞台となりました。とくに戦国末期、九州制圧をめざす島津氏による岩屋城攻めは大規模な戦闘で、太宰府の寺社も多くは焼失します。しかし、直後の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の九州入りをきっかけに、太宰府は復興していきます。
※本文は『太宰府市市制施行30周年記念 まるごと太宰府歴史展図録』(平成24年発行)より転載

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