太宰府の歴史

先史時代の太宰府の遺跡をはじめ、繁栄した古代太宰府、支配者がつぎつぎに代わる中世の太宰府とそこに花開いた文化、幕末の五卿の滞在と勤皇の志士や地元文化人との交わりなど、歴史の流れを紹介するとともに、太宰府の歴史を顕彰・再発見し失われつつある記憶をつなぎとめる取り組みが、江戸時代から行われていたことや、歴史文化を活かした事業をとおして、本市の地域性・風土が形成されてきたことを紹介します。

明治維新と太宰府


三條公以下七卿都落図(個人蔵)

 江戸時代の末、外国船が次々と日本を訪れ、開国を迫ります。幕府は、朝廷の許可なく開国を決めたため、人々の不満を招きました。そして「朝廷に政権を取りもどし(尊皇/そんのう)、外国を追い払おう(攘夷/じょうい)」という運動が激しくなりますが、やがて、欧米諸国の強さが分かると、次第に外国の進んだ技術・制度を取り入れて、幕府に代わる新しい日本の国づくりが目指されるようになります。
   政情不安が続く文久3年(1863)8月18日、尊皇攘夷派の7人の公卿(くぎょう)が、幕藩制の強化を図る薩摩藩(鹿児島)・会津藩(福島)らに京都を追われる事件が起こります(七卿落ち/しちきょうおち)。このうち5人は太宰府に移され、王政復古(おうせいふっこ)で帰京するまでの約3年を太宰府天満宮で過ごしました。この間、五卿(ごきょう)のもとには西郷隆盛(さいごうたかもり)・坂本龍馬(さかもとりょうま)など勤皇(きんのう)の志士たちが訪れて情報を交換し、太宰府はのちに「明治維新の策源地(さくげんち)」と呼ばれました。
※本文は『太宰府市市制施行30周年記念 まるごと太宰府歴史展図録』(平成24年発行)より転載

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