太宰府の民俗

太宰府市には、長い歴史の中で生まれた、多彩な物語や言い伝えが数多く残されています。しかし現在、社会状況の変化による影響などから、こうした物語が語り継がれなくなりつつあります。ここでは、古くから太宰府に伝わるさまざまな伝説についてご紹介します。


玄昉の墓(げんぼうのはか)


  玄昉は、唐で法相宗(ほっそうしゅう)を学んで帰国した僧で、奈良時代、聖武天皇のもとで政治にも権力をふるいました。
  しかし、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の台頭によって、天平17年(745)観世音寺別当に左遷され、大宰府にやってきました。観世音寺は天智天皇の母である斉明天皇の菩提をとむらうため発願した寺でしたが、落成したのはそれから約80年後の天平18年(746)でした。
  観世音寺の落成供養の日、玄昉は観世音寺別当として、衆僧の首座である導師を勤めていました。その時、突然空が真っ暗になり一面に暗雲がたちこめ、雷が轟き始めました。すると、赤い緋色の衣に冠をつけた霊が現れ、あっという間に玄昉をつかんで空に連れ去ってしまったのです。人々が驚いて空を見上げると、次の瞬間、玄昉の胴体と手足がバラバラと落ちてきました。あわてふためきながらも弟子たちは玄昉の体を拾い集め、葬ったといいます。それが現在、観世音寺の西北裏にある玄昉の墓だと伝えられています。
  人々は、玄昉を連れ去ったのは、生前玄昉らの政治を批判して大宰府で乱をおこした藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の霊だと噂しあいました。当時、緋色の衣は、位の高い人が身につける衣だったのです。
  また、空から落ちてこなかった玄昉の頭は、遠く奈良の興福寺に落ちたといわれ、玄昉の頭塔とされる塔が建っています。

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