歴史の散歩道(史跡スポット)

大宰府政庁跡
大宰府政庁跡

5大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと/国指定特別史跡)


大宰府政庁跡
 都府楼跡(とふろうあと)の名前で親しまれている大宰府政庁跡は、古代の役所である「大宰府」が置かれていた場所です。7世紀に起きた白村江(はくすきのえ/はくそんこう)の戦いで大敗した日本は、唐(とう)と新羅(しらぎ)が攻めてくることを恐れ、水城(みずき)や大野城(おおのじょう)などの防衛施設をつくりました。また博多湾の近くにあった「那津官家(なのつのみやけ)」という、穀物の貯蔵や対外交渉、九州の統治を行う機関を、現在の太宰府の地に移しました。これが「大宰府」の始まりともいわれています。
  北部九州は古くから中国大陸や朝鮮半島との交流が盛んな場所だったこともあり、外国との交渉の窓口として重要な役割を果たすとともに、防衛拠点としての役割も持っていました。大宰府は律令制下に置かれた地方最大の役所として、九州諸国をまとめたことから、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれました。
  現在も史跡の中心部分には当時の建物の大きさをしのばせる数多くの礎石が遺り、門や回廊(かいろう)、周辺の役所などが平面復元され、史跡公園として整備されています。

【条坊制(じょうぼうせい)】  
  古代の日本の都では、唐(とう)の都・長安(ちょうあん)にならって、碁盤目状に道路を走らせる都市計画が行われました。東西の道を条路(じょうろ)、南北を坊路(ぼうろ)といい、こうして整備された町割(まちわり)を「条坊制」と呼んでいます。
  大宰府もこれにならって町割がつくられました。大宰府の条坊は、政庁を北端の中心に置き、そこから真南に向かって、朱雀大路(すざくおおじ)が走っています。大路の東側を左郭(さかく)、西側を右郭(うかく)とし、左郭五条四坊などというように場所を言い表しました。平城京(奈良)や平安京(京都)などの中央の都から見ると、大宰府は地方の役所のひとつにすぎませんが、仕事の内容や長官の位の高さ、働く人の数、建物など、どれをとっても他の役所とは比べものにならないほど大規模なものだったため、大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていました。

【大宰府と税制】
  7世紀後半の日本では、唐で発達した律令(りつりょう)を手本にした国づくりを行いました。「律」は現在の刑法に、「令」は政治、経済などの行政法に当たり、これらに定められた制度を、「律令制(りつりょうせい)」といいます。
  国家維持のために必要な財政をまかなうため、律令制のもと、「租(そ)」・「庸(よう)」・「調(ちょう)」と呼ばれる租税が納められました。「租」とは6歳になると与えられる「口分田(くぶんでん)」の収穫の約3%に当たる稲を納めるもので、諸国の財源に充てられました。また「庸」は年に10日間都で労働するかわりに米や布などを納めるもの、「調」は地方の特産物か布を納めるもので、中央の財源となりました。これらの税物は、負担する人が直接都まで運ばなければなりませんでしたが、西海道(さいかいどう・九州)の場合だけは、いったん大宰府に集められ、その中の一部を都に送り、残りは大宰府の役人の給与や役所の運営に充てられていました。都に送った特産品には、西海道で生産された良質な真綿(蚕の繭から作る綿)や、染料となる紫草(むらさき・紫根)などがあり、荷につけられていた納税元を書いた木簡(もっかん)が平城宮跡から出土しています。

木簡にみる西海道の税
木簡にみる西海道の税
大宰条坊図(井上信正氏作図)
大宰条坊図(井上信正氏作図)

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