歴史の散歩道(史跡スポット)
1水城跡 【国指定特別史跡】
博多の方から太宰府に入ってまもなくすると、木立に覆われた土手が福岡平野を横切り、山の裾野へと続いているのが見えます。これは白村江(はくそんこう/はくすきのえ)での敗戦後、唐(とう)と新羅(しらぎ)の攻撃に備えて天智3年(664)に築かれた防衛施設「水城(みずき)」です。その規模は全長約1.2km、基底部の幅80m、高さ10mを越え、すべて人の手で築かれた土塁(堤防)です。博多側には幅60m、深さ4mの濠が造られ水を貯えていたとされ、海を渡って攻めてきた敵をくい止めるねらいがありました。また 春日市、大野城市にも、尾根と尾根の間の谷をふさぐようにして小規模な水城が造られています。
【水城の構造】
水城の土塁は、当時の進んだ技術を駆使して造られました。その一つが土塁を堅固にするための版築(はんちく)と呼ばれる工法で、粘土や砂を交互に盛っては、棒などで突き固めて積み上げる技術です。また土台の下部には、地滑りを防ぐために樹木の枝や葉を敷き詰める敷粗朶(しきそだ)と呼ばれる技術が用いられています。敷粗朶に使われた葉に若葉が含まれていたことから、水城の築造工事が春から夏にかけて行われたのではないかと考えられています。
また、博多側にあった幅約60mの濠に水を貯めるため、太宰府側から水を引く為の木樋(もくひ)と呼ばれる導水管があったことが、発掘調査によってわかっています。
【白村江の戦い(はくすきのえ/はくそんこうのたたかい)】
7世紀、朝鮮半島では百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)という3つの国が抗争を続けており、それに唐(とう・中国)も介入し、政情が不安定になっていました。唐は長きに渡り高句麗を攻めていましたが、攻めあぐね、百済を制圧することで高句麗を孤立させようと考え、新羅と手を結び、百済征討にかかりました。
斉明6年(660)、唐と新羅に攻められた百済は、かねてより友好関係にあった日本に助けを求めたため、日本はこれに応じ、翌年、博多湾から170艘(そう)の救援軍を送りました。天智2年(663)には27,000人の援軍を派遣しましたが、唐も7,000人の援軍を新羅に送り、日本は大敗します。これが白村江の戦いです。
この敗北により、日本はこれまで百済を通して保持していた朝鮮半島との友好関係を失うばかりでなく、唐と新羅が攻めて来るかもしれないという恐怖にさらされることになります。そこで、日本でもっとも大陸に近く、外交・防衛上重要な北部九州に、水城や大野城(おおのじょう)、基肄城(きいじょう)などの防衛施設が築かれることになりました。
この水城について、『日本書紀』巻二十七、天智天皇三年条に次のように書かれています。
是歳於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置防與烽。
又於筑紫大堤貯水名曰水城。
この歳(とし)、對馬(つしま)嶋、壹岐(いき)嶋、筑紫國等に防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。
また筑紫、大堤(つつみ)を築て水を貯へえしむ。名づけて水城と曰(い)ふ。
(読み下し文は『太宰府市史古代資料編』に拠る)
このことからも、対馬、壱岐、筑紫国に北部九州を警備する防人(さきもり)と、通信手段であるのろしをあげるための台を置いたこと、筑紫に「水城」という名の、水をたたえた大堤を築いたことがわかります。
【水城の構造】
水城の土塁は、当時の進んだ技術を駆使して造られました。その一つが土塁を堅固にするための版築(はんちく)と呼ばれる工法で、粘土や砂を交互に盛っては、棒などで突き固めて積み上げる技術です。また土台の下部には、地滑りを防ぐために樹木の枝や葉を敷き詰める敷粗朶(しきそだ)と呼ばれる技術が用いられています。敷粗朶に使われた葉に若葉が含まれていたことから、水城の築造工事が春から夏にかけて行われたのではないかと考えられています。
また、博多側にあった幅約60mの濠に水を貯めるため、太宰府側から水を引く為の木樋(もくひ)と呼ばれる導水管があったことが、発掘調査によってわかっています。
【白村江の戦い(はくすきのえ/はくそんこうのたたかい)】
7世紀、朝鮮半島では百済(くだら)・新羅(しらぎ)・高句麗(こうくり)という3つの国が抗争を続けており、それに唐(とう・中国)も介入し、政情が不安定になっていました。唐は長きに渡り高句麗を攻めていましたが、攻めあぐね、百済を制圧することで高句麗を孤立させようと考え、新羅と手を結び、百済征討にかかりました。
斉明6年(660)、唐と新羅に攻められた百済は、かねてより友好関係にあった日本に助けを求めたため、日本はこれに応じ、翌年、博多湾から170艘(そう)の救援軍を送りました。天智2年(663)には27,000人の援軍を派遣しましたが、唐も7,000人の援軍を新羅に送り、日本は大敗します。これが白村江の戦いです。
この敗北により、日本はこれまで百済を通して保持していた朝鮮半島との友好関係を失うばかりでなく、唐と新羅が攻めて来るかもしれないという恐怖にさらされることになります。そこで、日本でもっとも大陸に近く、外交・防衛上重要な北部九州に、水城や大野城(おおのじょう)、基肄城(きいじょう)などの防衛施設が築かれることになりました。
この水城について、『日本書紀』巻二十七、天智天皇三年条に次のように書かれています。
是歳於對馬嶋壹岐嶋筑紫國等置防與烽。
又於筑紫大堤貯水名曰水城。
この歳(とし)、對馬(つしま)嶋、壹岐(いき)嶋、筑紫國等に防(さきもり)と烽(とぶひ)とを置く。
また筑紫、大堤(つつみ)を築て水を貯へえしむ。名づけて水城と曰(い)ふ。
(読み下し文は『太宰府市史古代資料編』に拠る)
このことからも、対馬、壱岐、筑紫国に北部九州を警備する防人(さきもり)と、通信手段であるのろしをあげるための台を置いたこと、筑紫に「水城」という名の、水をたたえた大堤を築いたことがわかります。